皇帝アタワルパの財宝を分配した後、ピサロとアルマグロは、クスコに向かい1533年に占領した。しかしアルマグロのピサロに対する友情は、1526年には衰えつつある兆しを見せ始めた。ピサロが、ペルーの征服自体と全ての征服者がその征服によって受け取る賞に関する彼の認可権限を広げることをスペインのカルロス1世に対し残った征服者の名の元に要求し、「トレド協定」法を勝ち取ったからである。それより以前に征服者間では利益を等分する約束が存在していたにもかかわらず、スペイン王座に対処するとき、ピサロは自分自身のための、より大きい権限と権威を手に入れたのである。一方でアルマグロは、彼の勲功によって、1532年11月に王から「殿」の称号と個人の紋章を与えられるなど重要な財産を得ていたものの主要な統治権が与えられず、ペルーがピサロに与えられたことに反発を強めていた。
アルマグロはこのときまでに、ペルー征服によって既に十分な富を得、クスコで豪奢な生活を送っていたが、彼にとって、南方で更なる陸地を征服するという見通しは非常に魅力的であった。クスコに関するピサロとの論争が激化し続けたことにより、アルマグロはペルー南方への新しい探検のために、多くの時間と金を費やし500人の兵による隊を設立した。
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アルマグロは王室に対する不平を言った後に王室と交渉し、スペイン王室は1534年までに、2本の平行線により新植民地を分割することを決定した。すなわち、「ヌエバ・カスティーリャ」(南緯1度から14度まで、ペルーのピスコ近辺)及び「ヌエバ・トレド」(南緯14度から25度まで、チリのタルタル近辺)であり、それぞれ前者をピサロに後者をアルマグロに割り当て総督とした。王室は以前アルマグロをクスコ総督に選任していたが、アルマグロが任地に向かっていたとき、この分割はなされた。これが、アルマグロが即座にクスコを巡ってのピサロとの争いに向かわずに、チリの富の発見のための新しい探検を始めると即座に決めた理由であったかもしれない。